政策特集社会課題に挑むイノベーション新潮流 vol.4

ヒトの嗅覚が「再現」される日

香りをめぐる開発最前線

Pocket
LINEで送る


 プルーストの小説「失われた時を求めて」にこんな場面がある。紅茶に浸したマドレーヌの風味から、少年時代を過ごした田舎町の記憶がよみがえるー。ふとした香りをきっかけに、記憶の奥底に眠った過去が色鮮やかに浮かび上がる。こんな経験は、誰しも少なからずあるだろう。嗅覚は人間の五感の中でも最も謎に包まれているという。
 そんな人間の嗅覚を最新テクノロジーを駆使して「再現」する研究が、日本の香料産業の草分けである高砂香料工業で繰り広げられている。同社が現在、取り組むのは、人間の嗅覚システムを活用した匂いセンサーの開発だ。

センサー開発に挑む香りのスペシャリストたち。(高砂香料工業の先端領域創成研究所。左から2番目が星野所長)

官能評価に新たな手法

 香りが重視される製品開発や製造、品質管理の現場では、香りの質や特徴などを人間の感覚で評価する工程が欠かせない。「官能評価」と呼ばれるこの手法は、熟練者ならではの高い感度が期待される一方、香りをどう表現するかは個人差が大きく、また体調や疲労度によっても影響を受けやすい。特定の物質に対する感度を発揮するセンサーは実用化されているものの、網羅性のある人間の嗅覚を代替するレベルには達していないという。均一かつ高い再現性を備えた評価手法の開発は、香料産業や香りに関わる製品開発に携わる企業にとって、長年の課題であった。
 人間には数万種類もの匂いをかぎ分ける能力があると考えられている。しかし、その基本的なメカニズムが明らかになったのは、意外にも20世紀末から21世紀初頭にかけてのことであり、研究の歴史は浅い。2004年にノーベル医学生理学賞を受賞した二人の米国人科学者が鼻の中にある、匂いを感じる「嗅覚受容体」と呼ばれるたんぱく質を発現させる遺伝子を発見し、さらに情報がどのように脳に伝達されるかを突き止めたことがきっかけだ。しかも、数百万個ある人間の嗅覚神経細胞それぞれに、たった1種類の受容体が対応することも明らかになった。現在は約400種類もの受容体の存在が確認されている。

受容体発現細胞をつくる

 今回の研究のベースにあるのは、この「嗅覚受容体」である。まず人間の嗅覚受容体を発現させた細胞を、効率よく作製する技術を考案。さらにこれを東京大学と共同で、アレイ化してセンサーチップを作り、そのチップを搭載した携帯型小型センサーとして実用化する発想だ。
 この開発において、細胞の作製技術と並び、近年の技術革新を象徴するのが、人工知能(AI)を用いた情報処理技術との融合である。受容体の応答パターンを解析することで、あたかも人間のような情報処理のメカニズムを基盤技術として構築する。膨大なデータ処理と応答パターンの解析は、AIが最も得意とする領域だからだ。
 香りの捉え方は個人差が大きく、しかも、原料はベーシックなものだけでも1000種類以上ある。同社は、ここから必要な原料を選び出し、バランスを考え調合し、必要とする香りを作り出す。それだけにAIによるデータ解析は、「多様化する市場ニーズへの対応にも威力を発揮すると期待しています」。
 こう語るのは、高砂香料工業研究開発本部先端領域創成研究所の星野邦秀所長。実際、消費者の嗜好(しこう)の多様化などを背景に、香りを取り巻く環境は日々、変化。柔軟剤やシャンプーをはじめ、香りで差別化を図る日用品が増えていることに加え、嗅覚を刺激して購買意欲を高める新たな販促手法や、ホテルや空港など公共のスペースでも香りをブランディングとして活用する動きもある。香りの活躍領域は広がっているのだ。

星野所長

社会に広く活用

 ところで、嗅覚受容体は約400もの種類が存在するというが、そのすべてに対応するセンサーを開発するのか。
 「まずは感度が高く効率よく作製できるものから始めますが、すべてを再現することは技術的に可能です。いずれは、自社のビジネスでの活用にとどまらず、環境の影響調査や快適な空間づくりなど、さまざまな社会課題の解決に貢献したいと考えています」(同研究所寺田育生主管)。
 加えて、匂いには多くの情報が含まれており、この情報をうまく“かぎ分け”データ化できれば、人間の呼気や体臭からの疾病予測や健康管理、生鮮食品の熟度判定や、危険物・有害物質の検出などさまざまな用途での活用や社会課題の解決が期待される。
 一方で、人間の感覚や機能がどこまで「拡張」するかは、イノベーションの世界でいま、ホットなテーマの一つである。例えば、VR(仮想現実)やAR(拡張現実)、触覚センサーなどを組み合わせ、ロボットを遠く離れた人とコミュニケーションを図ったり、遠隔作業を行うアバター(分身)技術。見る、聞く、触るに加え、「嗅ぐ」という機能が追加されれば分身ロボットは、より人間に近付くのではないか。こんな問いかけに星野氏はこう応じた。
 「あながち絵空事でないかもしれないですね。まだまだ解き明かされてない嗅覚のメカニズムに挑むことは、新たな未来社会を切り拓くことにつながるのです」。

【関連情報】
高砂香料工業が活用している国の研究開発プログラム

NEDO先導研究プログラム〔エネルギー・環境新技術先導研究プログラム/新産業創出新技術先導研究プログラム/未踏チャレンジ2050〕

Pocket
LINEで送る

記事が気に入ったらいいねしてください! METI Journalの最新情報をお届けします!